〜「滲みと潤い」音・色・形のポリフォニー Vol.3 (スタジオSK)カタログ〜
滲みと潤い
早見 堯
雨は自然の体液ではないだろうか。大地の表面を流れて広がる雨水の滲みと地面に浸透する潤い。滲みと潤いは生命の息づかいと輝きとを大地にもたらす。
音は大気の中で、色とかたちは絵画の表面で滲みながらそこを潤すとき、わたしたちの情感を刺激する。
絵画がこうした滲みや潤いよりも、軽快で明瞭な染みに熱中していたのは1960年代から1970年代の初めごろだった。
パンチュール(絵画)はテンチュール(染め物)になってしまった、といったのはフランスの評論家ジャン・クレールだった。1970年代初頭、フランスで「シュポール(支え)/シュルファス(表面)」グループの活動が盛んだったころのことだ。絞り染めに似たシモン・アンタイの絵画やアクリル絵の具をキャンバスに染みこませるマルク・ドゥヴァドなどは典型的なアーティストだった。こうした技法の意義はキャンバスというシュポール(支持体)と描かれたシュルファス(表面)とを密着させることができることである。
かたちを目立たなくして色彩を強調しようとしたアメリカのケネス・ノーランドは、絵画の表面を薄くすることが1960年代には最大の関心事だったと語ったものだ。
絵画の表面を薄くする!?絵画の表面に厚みがあるのだろうか。
キャンバスやその表面の絵の具に厚みはあっても、絵画としての表面には測定できる厚みはない。絵画としての表面は見たときに感じられる厚み、すなわち空間だからである。絵画の表面を薄くするというのは、絵画の空間的な奥行きを浅くすることだ。
奥行きが浅い方が色彩の効果が発揮されて視覚的な訴求力が強くなる。絵画には支持体と表面を染みこみ画法で密着させたときに生まれる乾いた輝きが必要だった。
20世紀前半の絵画の主要なテーマは「地/図」、しかも、その二つが不可分で同時に現れてくることが課題だった。
20世紀半ば過ぎの緊急のテーマは、ここで述べているような「支持体/表面」の問題だった。
前者の課題は絵画の画面の横方向、すなわち並べておかれている「地」と「図」を一つにすることだ。
後者の課題は画面の奥と手前方向で分離している「支持体」と「表面」を密着させることだったのである。それには二つの道があった。一つは、モノクロームやパネルを並置した絵画のように、支持体と表面との差異が失われた「絵画のような」物体を絵画として見せるにはどうするのかを工夫する方向だ。もう一つは、ドナルド・ジャッドのように、箱という三次元の物体と観念としてしか存在できない幾何学とを支持体と表面として重ねあわせるやり方である。これら二つの間でさまざまな方法と作品が展開されたのだった。
須賀昭初と古川流雄、羽賀洋子の三人は、こうした20世紀半ば過ぎの問題圏域から出発している。
木綿のキャンバスという物体を絵画にすることが長い間の須賀昭初の課題だった。
「地」と「図」とを分離させないで限りなく接近させ、キャンバスとして織られた綿布という支持体もその上に形成された絵画としての表面に近づけること。こうした課題のなかで成立する絵画の幅はとても狭い。「地と図」も「支持体と表面」も一つになるように接近していながら、同時に微妙な差異を示さない限り絵画にはなりえない。最近の須賀は先の問題圏のなかで、タッチやストロークの痕跡を生かすことで絵画の幅を広げている。色彩感が抑えられた物質感のある輝きが画面を横方向に滲み広がり、呼吸に似た静かな鼓動が奥から画面の表面を潤している。
古川流雄は布に顔料を混ぜた樹脂を浸透させて、支持体の布と表面の樹脂とを密着させている。樹脂で固められた皺のある布の各部分が、光の具合で半透明から不透明にいたる諧調を醸しだしながら微妙な色合いで転調する。連続した一つの表面が差異のある表面になっているので、いくつもの色彩のフィールドだと感じさせられる。皺の表現力だ。さらに、異なる色合いの二つの布が横方向で並置されながら部分的に重ねて接合されている。風に揺られて生まれた皺。その皺に宿った光をもった二つの表面が滲みあい浸透しあう瞬間に定着させた潤いの記憶であるかのようだ。色彩のエロティックな戯れといってみたい。
羽賀洋子の絵画では画面の表面を横方向で分断する線は一切存在しない。一つの絵画の中では色相の差異は極力抑えられている。その結果、表面で連続して滲みあう色彩同士は微妙な差異をきわだたせる。色彩は光のフィルターを重ねたように薄い。急速に拡散したり集中したりする光ではなく、たおやかに膨らみゆるやかに凝縮する色彩なので、色彩のフィールドが分離したり飛びだしたりすることはない。水墨画の「たらしこみ」のように水気を帯びた表面を流れる絵の具は、凝集した澱みや拡散する暈染(うんせん)を形成している。澱みや暈染は透明に結晶して「花のような」、「植物のような」生命の息吹になって画面を潤しているのである。
滲みと潤いに彩られた三人の作品が発散しているのは、エロスといってもいいような生命の鼓動と息吹なのである。
ヴァイオリンの吐息やピアノの脈動とどう響きあうのだろうか。
(はやみ たかし 美術評論)