羽賀洋子|HAGA YOKO

〜「色彩の植物相(フローラ)」表層の冒険3 アリカアートサイト カタログ〜

羽賀洋子−色彩の植物相(フローラ)

谷川 渥

 ファウナ(動物相)とフローラ(植物相)という本来自然科学的なラテン語の語彙がある。たとえば、江戸時代末期に日本に滞在したあのシーボルトの労作『ファウナ・ジャポニカ』と『フローラ・ジャポニカ』は、それぞれ『日本動物誌』、『日本植物誌』と訳されている。  動物相と植物相があるなら、当然、鉱物相もありうるだろうが、いずれにせよこうした言葉は、ニーチェのアポロン的とディオニュソス的、美術史上のクラシックとバロック、わが国における縄文的と弥生的といった対概念のように、あるいは地水火風の四大をめぐるバシュラールの「物質的想像力」のように、芸術的想像力の一種の類型概念として用いられる可能性があるように思う。

 羽賀洋子の作品の前に立つと、ついこの「植物相」という言葉が口をついて出る。それは、彼女がジョージア・オキーフやその凡百なエピゴーネンたちのように花を画面いっぱいに描くといったたぐいの画家のひとりであるからではない。たしかに花は美しい。しかし美しい花を描いた絵はかならずしも美しい絵ではない。そこがまさに芸術のいちばん微妙にして困難なところであって、選ばれた美しい対象は作品の価値を保証するわけではないのである。

 なるほど「蓮」のような具体的な対象が画面上に見てとれないわけではないにしても、それは現実的な厚みをもたぬ意匠として用いられているにすぎない。私が羽賀の作品にあえて「植物相」という言葉を当てがおうとするのは、色彩がのびやかに画面をおおい、あるいは相互に浸透し、また重層化して、そこに漠然と植物的とでも形容するほかはない暗示的な形象に仮託された有機的な宇宙が現出しているからだ。まことにおおらかな色彩の宇宙である。

 用いられる色に注意しよう。彼女の作品は、赤、青、黄の三原色のいずれかひとつを主調としながら、さらに紫(菫)、橙、そして稀に緑によって構成される。あらためて指摘するまでもないが、赤と青の絵具を混ぜれば紫(菫)が、赤と黄の絵具を混ぜれば橙が、青と黄の絵具を混ぜれば緑が得られる。これら六色の関係を円環状に表したものが「色相環」と呼ばれるが、羽賀の作品はほとんどすべてこの色相環の内部の関係性によって成立している。ちなみに、ゲーテは、その「色彩論」のなかで、この色相環についてかなりのページを割き、その「調和的な対立関係」や「特徴のある組み合わせ」を論じている。

 羽賀の作品の彩度と純度の高さは、このように三原色とその一次的混合色の使用という基本的なマニエラによって可能になっているが、その混合色のなかでも緑の使用が比較的抑制されていることは留意されていい。ゲーテは「色彩の感覚的精神的作用」を論じて、緑を「現実的満足」を与える色と見ているが、いずれにせよ緑は安定、したって運動、生成、展開にはいささかなじまない。緑色を抑制したのは賢明な策であり、画家の芸術的直観のしからしめるところでもあろう。色彩の植物相(フローラ)は、植物といえば誰でもすぐに連想するであろう緑色を逆説的にもあたうかぎり抑えることによって現出しているのだ。

 作品の類似性という点でいえば、私が彼女の作品を前にして真っ先に想起したのは、二十世紀の抽象絵画のいずれでもない。まことに唐突なようだが、十六世紀のドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトの<イーゼンハイム祭壇画>の第二場面をなす「キリストの復活」である。私はこの祭壇画をじかに見たいがためにドイツとの国境近くにあるフランスのコルマールのウンターリンデン美術館まで足を運んだものだが、第一場面で磔刑のキリストの肉体のすさまじい腐乱を描写した画家は、この第二場面で光と化して昇天するキリストを表現した。青から赤、赤から黄へと変容する衣服、そしてキリストの背後に拡がる黄、橙、赤、青の光輪。形あるものが形ならざるものへと変容し超越するときに生起するこの色彩現象こそが、羽賀の作品から想起されたものだ。グリューネヴァルトもまた、色相環の基本的構成要素だけでキリストの「昇天」を表現しているのである。キリストの肉体の腐乱が、形から形ならざるものへの下方への頽落であるとすれば、キリストの昇天とは、形から形ならざるものへの上方への変容であろう。腐乱は、してみれば、昇天のための不可欠の前提であったといえるかもしれない。グリューネヴァルトは、そのことを六つの色彩だけで表現しようとした。そして色は光へと変成する。

 もとより羽賀との色彩のこの一致は偶然にすぎないだろう。安易な比較は無意味だが、しかし少なくとも色彩の使用に関するかぎり、両者のあいだになにがしかの同質性を感じたとしても意味のないわけではあるまい。

 ともあれ、こちらはあくまでもおおらかな色彩の宇宙、色彩の植物相(フローラ)の世界である。ゆらぎ、たゆたい、浸透し、のびやかに拡がるその世界に身を委ねることこそが肝要であろう。そしてここでは色は光へと変成して消失してゆく過渡的なものとしてはとらえられていない。色はあくまでも色でありつつ、しかもそのうちに光をはらむ。ゲーテはいみじくも黄色を指して「光に最も近い色彩」と書いているが、画家が黄色を多用するのもそのことに関係があるかもしれない。色に身を委ねることがとりもなおさず光を感じることである、そのような体験を可能にしてくれるならば、彼女の作品は成功していることになるだろう。

(たにがわあつし 美学者)
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