羽賀洋子|HAGA YOKO

〜「色彩と経験」羽賀洋子展−色奏−影映(人形町ヴィジョンズ)カタログ〜

色彩と経験

山村仁志

羽賀洋子の絵画を見ていると、色の輝きに圧倒される。私が絵を見ているのか、色彩に身体が照らされ、私が絵に包まれているのか、 判然としない。色は、必ずしも矩形の枠内に止まっていない。もちろん、矩形の中に全体のまとまりや調和、均整がないわけでは ない。明暗のバランス、色彩のバランスは概ね安定している。しかし、色彩は画面内で均衡しつつ、なお上下左右や前方後方に向 かう運動感も孕んでいる。そして私の身体と時間を包む。私は絵画を見ているが、絵画は私を包んでいる。絵画に包まれる。それ は、ある種の幸福な経験なのだ。

綿布に水性アルキド樹脂絵具で描かれた色彩豊かな光の表面である。写真ではスプレーで彩色したように見えるかも知れ ないが、全て刷毛で何層にも絵具を微妙に重ねてある。大小様々な刷毛を駆使して、薄く何度も何度も絵具が重ねられた表面は透 明感があり、美しい湖面のように底深い。彼女のマチエールには独自の個性がある。それは光沢がなく、マットで、しかも透明感 と深みがあって心地よい。油彩でも水彩でもアクリルでもない、独特の味わいと厚みのある表面だ。

羽賀洋子の色彩は強く、鮮やかだ。彩度が高い。薄く重ねられた色彩なので、物質的で生な絵具の印象は全くない。だが、発色 が良く、色が輝いている。色彩は反射光ではなく透過光として眼に届く。つまり、一旦カンヴァス地の白い下塗り層に届いた光が 反射して眼に向かって来るときに絵具層を透過して色彩が輝くのである。ともすれば、この宝石のような色彩の輝きに惑わされて 画面のバランスや統一感がなくなってしまいがちだ。一般に悪い意味で甘美で、部分的で、工芸的な趣味的表現に陥ることが多い。 彼女はそれをよく分かっていて、色彩の突出を慎重に避けて、画面全体を統御するために白い絵具を効果的に用いている。

彼女の階調は、まるで色を孕んだ薄い雲のようだ。秋の澄んだ天空の彼方を仰ぎ見ているかのような透明な深みは、複雑で微妙 なトーンの変化によってもたらされている。光の粒子が空中で散乱しつつ、様々な色彩スペクトルに分光しながら秩序をなして風 景を形成している。言い換えれば、画面全体の明暗そして階調のバランスが、甘美な色彩を抑制している。特に白く薄い階調が、 画面から溢れだしそうになる色彩の膨張をからくも堰き止めている。白い絵の具は粒子の肌触りを喚起して絵画の平坦な表面を意 識させつつ、複数の色相を関連づけている。色彩を抑制しつつ統御するこの統整的機能は目立たないし、前面には出てはこないが 重要である。そのプロセスは恐らく時間をかけた試行錯誤だろう。加筆と抹消、創造と破壊の繰り返しだろう。演奏家が毎日数時 間訓練するのと似ている。画家は誰でも苦心していることだが、複数の色彩の彩度を生かしたまま統御することは容易ではない。 制作における絵画とのやりとりは答えのない苦難の道だ。道なき道を分け入っていく孤独な探索だ。それを支えているのは画家の 制作作業の反復である。ほとんど認知できないほど微細な無数の筆触と色のにじみ、たらしこみ、重ね合わせの痕跡である。制作 過程の苦闘の厚みが絵画体験の幸福感を支えている。一見そう見えないだろうが、じっくりと見ていると、白を手がかりにして色 彩と階調の複雑さ、そして構成とバランスが徐々に意識できるようになる。構成やバランスのみならず、静かな運動感の基底にも なっていることが分かってくる。見る方にも絵画との対話あるいは視覚の反復が必要なのである。逆に言えば、制作の苦悩のない ドローイングや絵画は厚みも見応えもなく、過程や範例として興味深いにしてもたいていの場合すぐに見飽きてしまう。

羽賀洋子の絵画体験は、私にはモーリス・ラヴェルの傑作「亡き王女のためのパヴァーヌ」を思い出させるところがある。耳を 澄ませば、その静かでゆるやかな音楽が徐々に聞き取れるような気がしてくる。単純だが美しいメロディーの反復と変奏。繊細で ゆっくりとした、少しずつ変化する複雑なリズム、そしてこの世のものとは思えない、天上から降ってくるかのごときピアノの細 やかな音色。ぼんやりと輝く天空の雲の絨毯の上をひとりの少女がゆっくりと歩くような、朧な月の光に満ちた重力のない夜空を 漂うような、そんな幻想と至福の感覚である。多くの音楽家、演奏家が彼女の抽象絵画に共感しているようだが、頷けるところが ある。

彼女の絵画の表面は、透明色が何層も薄く少しずつ重なりながら、あるところは赤、オレンジ、黄色、あるところは赤、紫、青、 緑というふうに段階的かつ微妙に色相を変化させている。また、淡く、細やかに明暗と階調を変化させている。まるで夕暮れの天 空、川を流れる水の反映する陽光、木々の木漏れ日、雲の切れ間、草むらの陰翳、あるいは海に潜って下から見た海面の揺らぎな ど、私たちがどこかで経験した光と色の響き合いとその移ろいを連想させる。しかし、それは必ずしも特定の風景あるいはイメー ジではない。そうではなく、特定のイメージを喚起する以前の映像、ヴィジョン、または原初的な記憶の残像と言えばいいだろうか。

羽賀洋子はこれまでに二冊絵本を出版している。2004 年の「いろいろ」、そして 2012 年の「つきといっしょにタランタラン」(い ずれも至光社)である。アトリエでそのパステル原画を床に広げて何枚も見せてもらいながら、なるほどと思った。月光、空、雲、 花、草むら、露、水、影、樹木、霧、電灯など、月影の少女が見た光の風景が美しいパステルで描かれている。見るものが彼女の 抽象絵画を見て連想する記憶の風景は絵本の中に直接表現されている。恐らく、子どもの頃に見た光と色彩の豊かな記憶である。 アトリエに置かれている絵画と絵本原画を直接比べて感じたのは、抽象絵画においては記憶のイメージが剥ぎ取られて、さらに奥 深いものが探求されているということだった。少女はもっと小さくなって、昆虫が見る風景を見ている。光と色のエッセンスを見 ている。

彼女の絵画は、幸福な経験の記憶である。風景や音楽に似ていると言うよりも、それ以前の原初的な記憶の残像に似ている。何 かのイメージを描き出すというより、むしろそのイメージを一枚一枚削除しながら、徐々に記憶の深層に分け入っていくがごとき 感触がある。記憶の起源を探索すること、すなわち青は水や空のイメージから青い色彩の残像へと回帰していき、赤や黄色は花や 電灯や月のイメージから原初的な光の経験へと遡行していく。それは、名前のない感覚の記憶といえばいいだろうか。なるほど豊 かな階調や色彩が、音の階調やメロディと近接する点もある。しかし、むしろ音と色彩さえ区別できなくなる原初的な記憶への遡 行こそが、羽賀洋子の執拗な制作作業、孤独な探索、色層の重ね合わせが目指しているものではないかと思う。

(やまむら ひとし 府中市美術館 副館長)
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